もう20歳もすぎたんだし。。。

息子たちが生まれた時、
私の使命はこの子たちを社会にでていける「大人」に仕上げることだと思った。

でも、ここに来てその目標だけだと薄っぺらだったのか?
なんて思ってしまう。
もっと、「こういう子」になって欲しいと願わないといけなかったんじゃないかと思ってしまう。

冬のオリンピックを見ていて特に思った。
アスリートたちの親は心血を注いで子どものバックアップしている風に見えた。
親が子供に「あれしなさい、これしなさい」と言うのはナンセンスだと思っていたし、ましてや自分が叶えられなかった夢を子どもに託すなんてエゴだと思った。
たぶん、今でも思っている。

だけど、やっぱりある程度の線路は引かないといけなかったのかな?

とここに来て思ってしまった。
たぶん、何か「安心」できない「不安」があるからだろうと思うけど。
息子たちが楽しそうで幸せそうだったらそんなことも思わないのだろうけど、何かに躓いている雰囲気を感じて、「不安」になっているんだろうと思う。
ここで、親が線路を引いてそこを走りなさいと言えば、きっと安心するのは息子ではなく私なんだと思う。

いい子に育ったと思う。
だけど、未来を自分で切り開いていく力がいまいち天任せなところがあって、自分でバンバン答えを出していきたい私にはもどかしいのだ。
結果が出るまでの時間がとてつもなく長く感じて辛い。

子どもを信じろ!
と思うのだけど、事が起こると信じる力が揺らいでしまう。
そして、やきもきしている私と裏腹に 中途半端な途中経過を見せらると怒りすら湧いてくる。

家族を幸せにしたくて、毎日頑張っているのに、君らは何をしているんだい?

と思ってしまう。
この気持ちって、世の旦那が口にする
「誰のおかげで飯食っていけてると思うんだ?」
てのと同じなのかしら?
だとしたら、なんか、お父さんの気持ちもわかる気がする。自分が思う結果に相手が答えていないと感じるからなんじゃないかなと。
妻は妻で妻自身のキャパの中で頑張っているのだけど、妻が思う到達点と
夫は夫のキャパの中で頑張っている夫が思う到達点が違ってきてるんだなと
なんだか、今更気がついた気がする。

「思い」が違うんだ。
私 と私でない人の「思い」が違うってことを前提に考えると当たり前のことが何らかの原因で不安や不満が出てくると身近な人と自分は同じ考えであるという思考になってしまうような気がする。

それが、息子たちも20歳をすぎ、彼らの「思い」が私には伝わってこなかったりする。大切にしてあげたい「思い」なのに、自分が想像していた到達点と違うからなんだか落ち着かなくなる。

実は息子たちのことで悩んでいるようで「問題」は自分自身なんだ。
自分自身に不安材料があるからそれを肯定する言い訳に息子のことを利用してるだけなんだ。


夕飯を作っているとよくわかる。
自分が食べたいものを作るのが一番おいしい夕飯になる。
「煮魚は嫌い」
と言う長男、三男。
だからずっと遠慮して作っていなかったけど、どうしても、どうしても食べたかったので赤カレイをにつけた。
「煮魚か、めずらしいじ」
と言って食べだしている。
「美味しい」とまで言っている。
数年前だったら箸さえつけなかったのに。

私の中で子たちの時間が止まってしまってる。
今の息子たちと同期しないと、私は思い出の中で生きる母親になってしまう。
「子どもたちのために」
という偽善はそろそろ卒業しないと。

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