波瀾万丈というほどの人生でもなく、順風満帆というほどの人生でもなく、ほどほどだなと思う。

10数年前、パワハラを受けて、仕事を失い仲間を失い世界中でだれも信じられない!
なんて、外を出るときは下を向いて誰にも目を合わさないで買い物をしていたころ、
不思議なことを言う人がいた。

「伊藤さん、私には未来が見えるの。あなたはそのうち世の中にでて、世の中に必要な人になっていくから、今は、お子さんたちと一生懸命向き合っていきなさい」

と予言めいたことを言ったのだ。


「ほんとうは、いつっていうのもわかるのだけどそれを言うとあなたは今を見なくなるから言わないでおくね」


って。




その時の私は、世界中から取り残された気分でもあったので、すごく焦っていた。焦ってもいたし、そして、落ち込んでもいた。
だから、子どもと向き合いなさいという言葉は、居心地がよかった。
その時、苦しい中でも、息子たちの事をやっているのは苦ではなかったし、彼らも尋常でない私の様子を心配していることは伝わってきていたので、息子たちだけを見て過ごせばいいというのは、とても安堵なする状態にちがいなかった。


なんだか、ほっとして、そして、息子たちの事を一番に考えて毎日を過ごすことに没頭した。
その数か月前、パワハラを受けてパニック状態になっている私に当時小学1年生の二男が私の頭をなでながら、

「少し休めってことやって」

と撫でてくれていた。

パワハラの数か月後に発症した皮膚の病気には、当時年中さんだったチビが毎日風呂上がりの私の背中に薬を丁寧に塗ってくれていた。

長男は、、かれは行動には起こせないタイプだけれども、人一倍察知する能力に長けているので私を見てずいぶんしんどい思いをしていたに違いない。

そんな優しい、小さな手に応えていればいい。
無理をして仕事に出て人とかかわらなくていい。
息子たちを安心させ、喜ばれるように過ごしていればいい。
ある意味預言者の言葉は私にそういう風に響いた。

どんなに救われたことか。




そして、2年後くらいだったか、専修学校の調理実習講師を週一でやってくれないかという話が来て、その2年後くらいに事務員を探している話が来て、その2年後くらいに友人の会社を手伝ってほしいと言われ、その2年後くらいにパソコン講師になる決意をし、その2年後くらいに取締役になり、その半年後に独立していた。

その間、旦那との別居生活が始まったり、息子たちに莫大なお金がいるようになったり、そのために家のローン返済が苦しくなったり、自分の変化はめまぐるしいのに、家の中はなんだかいつも大変。

だけど、「いつか」のために息子たちの事はしっかりとやっておけばいい。
お題目のように唱え、どうしたら乗り切れるかを考えて生きていた。

あ、でも、書くとものすごく苦労したように感じるかもしれないけれども、今思い出しても確かに必死ではあったけれども、電気やガスが止まることもなかったし、料理が好きだったから、息子たちを喜ばせてあげることはそれで叶っていたし、一コマ一コマはそれなりに楽しかったはずだ。

ただ、別居生活なんていう中途半端なことをやっているという罪悪感はあったので、さみしい思いはさせたくないというか、そこをつっこまれないように子どもたちに接していたというところはあったかもしれない。

3人の子供を抱え、家を出て育てていく。

徐々にお金がかかることを実感していただけに、私ひとりで育ててはいけないと肌身に感じていた。別居しながらでも「お金」の面では夫婦協同責任でやることがベストだと、人がなんと言おうと、実家に多大なる心配をかけようと、歯を食いしばった。

この子たちを育てなくてはいけない。
綺麗な家に住み、贅沢ではないにしろおいしいものを食べ、友達がそばにいる環境を私のわがままでどん底に落とすことはできないと思った。

それは、きっと息子たちにかこつけて私自身がそんな生活水準以下のことを望まなかったからだと今なら思える。



パソコン教室を立ち上げ、軌道に乗ってきたころ、そう、町家に教室を持った頃、体調が最悪になってしまった。皮膚炎の悪化そのために服用しなければならなくなった強い薬のおかげで、全身のだるさ、吐き気、数歩歩いただけで息が切れてしまうくらいだった。
その当時の事を、先日GWのさなか次男と二人で食事をしているときに次男から告白された。

「あの時、そんなおかんの状態を見ていて、家に帰るのも嫌だった。つらそうだし、機嫌が悪いし」

そういえば、あの時の次男は機嫌が悪かったな。そうか私を見ていてそうなってたんだ。と今更しった。


そして、その時次男から提案が出た
「平日だけでも町家の近くにアパートでも借りて、チビと暮らせば?兄ちゃんも俺ももう20歳過ぎているんだからどうにかなるから」

当時長男は大学生。次男は社会人2年生。チビは高校2年生だった。教室運営はなんとなく上向いてきたころ。

アパート代くらいだせるかも。

長男次男同時に高校生で学校のお金や、北鉄の電車の定期代や、合宿代やとわけのわからないお金が出て行った頃をクリアしてきた後だった。
チビの定期代私のガソリン代でアパート代くらい出ると計算できた。

探そう。アパートを探そう。やれる。








ついこの間まで、息子たちを育て上げるのに必死だった毎日が、いつの間にか、息子たちは自分で稼いで来たり、自分で食事が作れたり、そう、小さかったころ想像もできなかった「大人」になっていたのだった。



お金がないから、鶴来を離れられない。お金が稼げないから離婚できない。

そう思い続けていた20数年が、
次男の「アパートでも探せば」の一言で、あっという間に変化してしまったのだった。



金沢の中心地の分譲マンションに息子たち全員と住み、さっぱりと離婚し、自宅に事務所部屋を作って仕事をしながら暮らしているなんてこと、誰が想像できただろうか。
すごくラッキー。
だけど、思い返せば、生まれてこの方いつもラッキー。

物事の一面だけから見れば、辛く苦しい道のりだったかもしれない、でも、ほんの少し、ほんの数ミリ角度を違えるだけでも、物事は変わらないのに、ラッキーな出来事になってしまう。
恨みつらみの対象だった人たちにでさえ感謝の言葉を言いたくなるくらいにラッキーな人生。


でも、やっぱり、別居生活はしんどかった。でも、離婚したらもっとしんどかったに違いない。
「お金」は時間を奪う。
子どもたちが小さいうちに離婚して生活にもっと追われていたら、今の生活はやれていないと思う。


子育ては、世間体とか体裁とかそんなものをかなぐり捨てて必死に生きないと全うできないくらい大変なことだと、振り返ってつくづく思う。
自分たちのわがままで子どもたちは振り回される。頼みもしないのに。
子育ては大変だけど、大変をもっと大変にしてしまうのも生んだ親の方だ。



私は今、一日一日を息子たちへのご恩返しだと思って生きている。
今生かされている自分は、小さな小さな手で支えてくれていた彼らがいたからだ。
私が幸せにいきていないと、彼らは何のために私を許し夫を許し過ごしてきたのか訳が分からなくなってしまうと信じて。




昨日、友人と話をしていて、この話が出て、なんだか二人で泣いてしまった。
おかあさんは、その人が抱える最上級の努力をしながら生きている。
自分以外の人のために「1」以上の力を振り絞って。
それが最善だと信じて。

それがいいのか悪いのか迷うことがあったら、我が子の顔をよくみるといい。
そこに、答えがある。




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