毒は毒であり愛はやっぱり愛である。

言いたいことが言えない。
だから、つらい。

だから、言いたいことを言える人になりたい。


そんなことを思っている人は多いと思う。


だから、「毒舌」にもあこがれるのだろうけれども。




「毒舌」とは、他人に対して辛辣な言葉・悪口や皮肉のこと。(wikipediaから引用)




果たして、「毒舌」が本当に「言いたいことを言っている」ということになるの?
と私は思っている。


人は「理性」と「知性」を持つ生き物で、「愛」を持つ生き物だ。
言葉を伝えるのに、何も 辛辣な言葉 や 悪口 や 皮肉 を言わなくても伝えられるということに気が付かないと、
せっかく、「言いたいことを自分は言っている」と思ってやっているのに、いつまでも伝えたことによる「恐怖」と向き合わないといけないことになる。


「あの人がこう思っているのじゃないだろうか」
「あいつらに馬鹿にされてるんじゃないだろうか」
「誰かが攻撃してくるんじゃないか」


その恐怖は日に日に大きくなっていくはずだ。
そして、攻撃される前に攻撃しないと。
となってしまう。


最近ではやっていないのだが、文章を書くときにどんな悩みがありますか?というアンケートに答えてもらっている時があった。その中で

□ 敵を作らないかと不安である。

という項目にチェックを入れる人は結構いた。
何かしらの言いたいことがある。だけどそれによって敵を作ってしまいやしないかという恐怖。



この感情を克服して文章を書けるようになるには、自分が書く文章をネガティブ(否定的)にとらえる人の心理をケアすることだ。あなたが書く文章の中で、相手のネガティブを受け取り、ねぎらい、癒すということをするのだ。

それをすることによって、誰かに攻撃されるのではないかとおびえていた自分の心を恐怖から解放することができるのだ。
この手法を手に入れた人は、「毒舌」を言わなくても自分の言いたいことが伝えられるようになる。
まるで、仏様かマザーテレサにでもなったように、「愛」をもって伝えられることができるようになる。



ここで、「愛」を軟弱な遠回しな言い回しだと思ってもらっては困る。
「愛」のある文章とは、読み手の感情を受け取る強さがあるということであって、伝えたことによっておこることをすべて受け止める覚悟ができているということなのである。


それは、「厳しさ」となって現れるので、読み手の心の琴線に触れる言葉となる。




私のコトバオンチトレーニングとは、単に美しい文章を書きましょう。という作文練習とは違う。
感情と向き合い、自分はその伝えたいことを伝えていったいどうなりたいのかに向き合うトレーニングなのだ。
だから、頭の中が整理され、自分が進むべき道が明らかになっていくのだ。



SNSなんてものが流行り、だれもかれもが自分の意見を述べられる世界になった。
見たくない、読みたくない情報がまるで事故のように自分の前に現れる。
野次馬根性がその先を見たく、読みたくさせる。
そして、最後まで見た、読んだあと、なんとも後味の悪いざわざわとした気分にさせられ、傷つけられたような気になってしまう。
「見るな」「読むな」と言われても気になってしまう。

そんな、ややこしい世の中だ。

だからこそ、自分がどこに向かっているのか、だれを大切に生きていきたいのか、それを自分の腹にしっかりと落とし込んでおくことが大切なのだ。



凛として生きよう。


こんな時代だからこそ、愛をもって凛として生きよう。


そういうことを、今日も、明日も伝えながら仕事をしたい。





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