そういうことがあったんだと受け止めてみる ~舞鶴引揚記念館視察から~

我が教室の開校当初から通ってくださる宮岸さん(78歳)。
この宮岸さんのハイテクぶりには毎度毎度頭が下がるというかそのおかげで知らなくてはいけないことが次から次から増えるというか、、ありがたい話です。

その宮岸さんが企画した視察旅行に同行してきました。
宮岸さんに興味があるというお若い新池さんと、お母様が満州から引き揚げてきたという酒井さんが我が教室から参加。絶好の秋晴れの中最高のバス良好となりました。


参加者のほとんどが人生の大先輩ばかりで、休み休み3時間半かけて舞鶴入りしました。
まずは、「舞鶴引揚記念館」へ。
終戦後、混乱の満州から命からがらやっと日本にたどり着いた桟橋。
当時舞鶴の人たちは自分たちの仕事をほっぽり出して、ここにたどり着いた日本人を手厚くもてなしたそうです。

記念館の中には、栄養失調で痩せこけた子供たちの写真がたくさんありました。

そして、舞鶴の山々が見えた時の感動がかかれてありました。

そして、来る日も来る日も引き揚げ船から我が子が降りてくるのを信じて待っている母親の物語がありました。

お昼ご飯は、そこから15分ほど入ったホテルでのお食事でした。総勢38名。

「舞鶴」という地元のワンカップが。これはお土産にカバンの中に。








そして、お腹がいっぱいになった後は、海上自衛隊舞鶴基地へ。。。

 軍艦(?)がたくさん停泊していました。どれをみても、かっこいい・・・・
中を見学できるかも。というお話もあったのですが、この日は祭日にはめずらしく訓練があったことと停泊中の船は点検中ということで軍艦の中は入ることができませんでした。




 海上自衛隊の門をくぐると、真っ白な制服を着た自衛官の方が。。。
これまた、かっこいい。。。

展示館の中は撮影禁止ということで写真はないのですが、中には船内で使われた者や軍服が展示してありました。
中で印象的だったのが、「短剣」懐刀。
きれいな装飾が施されたもの、木でできたもの。そして、ぴかぴかに光っている刃。


この刀で死んでいった人たちがいったいどれくらいいたのだろう。。。


宮岸さんのホームページ制作を手伝っている時も、
そういう資料を見ている時も、
戦争のドラマや映画を見ている時も、
私は怖くて仕方がなくなります。
私には息子が3人います。18歳、21歳、23歳。
もし、戦争が起きたら、息子たちは兵隊さんにとられるのでしょうか?

私はお国のためにと我が子を見送ることができるのでしょうか?

嫌です。絶対嫌です。

そういう目線でいるものだから、宮岸さんの満州からの逃避行の話は胸がつまります。
そういう目線でいるものだから、引揚記念館の桟橋に立つとそこで待つ母親の気持ちがふってきて涙がとまりませんでした。

我が子を喜んで戦場に送りこむ母親なんていない。
と私は思います。

世界の人々が「お母さん」の愛情と悲しみを一番先に思ったら、戦争なんておきないのに。
と思います。「お母さん」がいない人はいないのだから。

もし、戦争が起きたら、私は息子たちを誰にも見つからない場所に隠したい。
息子たちを戦争にやってたまるか!!どんなに避難されようと。


70年前。
確かに戦争がありました。
その戦争が起こってしまったこと、その戦争によっておこったこと、そのどれもが実際に人間が起こしたことと受け止めなければいけません。いいとか悪いとかそういう主観はそこにいた人間ではないので判断はつきません。
戦争の中で繰り広げられた人間の残虐性は、人間にはそういうことができる要素があると受け止めなければいけません。受け止めた上でそれが倫理に反しているのならそれが起こらないよう理性と秩序を「今」ここに生きている人間が考えなければいけません。

「平和」を考える時、そういう人間の闇も理解しておきたいです。闇に蓋をして見ないふりをしていてはうわべの平和になってしまうような気がします。

難しいことはわかりません。
でも、足手まといになるからと、赤子に自ら手をかける母や、恥かしめをうけるまいとジケツして行った民間人や、「死」というものに怯えながら「死」しか選べなかった多くの人たちの「心」を想像してそういうことが「嫌だ」と思うことは大切なように思います。

そして、実際にその時を経験してきた人たちは80歳前後という年齢になっています。
が、この方たちは戦争当時子どもだった世代です。
もう10年もたてば、戦争のことを生の声として伝える人たちがいなくなってしまいます。

物語でもなく、ドラマでもなく、映画でもなく。

昨日参加されていた方々は実際に満州から引き揚げてきた人たちもかなりいました。
満州から引き揚げ船にのるために、ロシア人や中国人に見つかるからと、親が生まれたばかりの妹を木の下に名前を書いたものを置いておいてきたという人がいました。
40年後、その妹が生きて日本に現れたそうです。そういう方たちの体験談を宮岸さんは月に一度、北陸満友会語り部の会 として語り部活動をしています。
今年度後半の予定はこちらhttp://k-amur.boy.jp/pg255.html

宮岸清衛の逃避行・3度の死線を越えて日本にたどり着く
K-アムールボーイ (宮岸清衛公式ホームページ)

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