察しない男。2

いろいろ、なんだか、つくづく思うのだけど、
結婚生活において、相手に期待していたことは、夕飯を作ってほしいとか、茶碗を洗ってほしいとか、洗濯物を干してほしいとか、こどもをお風呂にいれてほしいとか、もっといたわってほしいとか、そんなことじゃなかった。

「ありがとう」と言われたかった。
ただ、それだけだった気がする。

これだけやっても、まだ言われない。もっとつくしても、まだ言われない。あ~したら、こ~したら、ただただ「ありがとう」の一言が欲しくてしまいに意固地になってしまって、そして、疲れちゃった気がする。

きっと、相手の「ありがたい」ポイントと、私がほしい「ありがとう」のポイントが違ってたんだろうな。また、私が「ありがたい」と思うポイントと相手が「ありがとう」が欲しいポイントが違ってたんだろうな。

あ、別に今更相手を責めているんじゃないです。
「過去の自分」の蓋をして逃げてきた感情を整理して、ひとつずつ昇華していこうと思って。
「怒り」とか「罪悪感」とかそんなふわふわした感情にいつまでもとらわれない自分でいたい。

過去のひとつひとつの出来事が、今の私には必要だった通過点だったと、ひとつひとつに感謝して手放していこうと思います。

もう、そこにとらわれなくてもよいという許可を自分自身に与えていこうと思います。だって、とらわれていたってどうしようもないじゃんね。

だって、しょうがないじゃない。

ですもんね。

息子たちは私の前にきて、よくつぶやく。「あ~久しぶりに白玉食べたいな~」とか、「肉食べたい」とか。
やっぱ、ちゃんと「声」にだして伝えないとわからんね。うん。わからんわ。うん。


去年ようやっと離婚できて、ようやっと自分自身をいたわることを思い出してきて、んで、やっと、思いだすととても嫌な気分になるからと逃げていた感情と向き合うことができてきました。

向き合ってみると、そんなに深刻なこともなく、「だってしょうがないじゃん」と諦めることができました。

私が通った短大は仏教学という講義がありました。その中で「諦める」ということを説明しなさいという試験問題があったのを今でも思い出します。あの時は単位をとるために一生懸命わからないなりに自分の中に落とし込んだのですが、そのことが、今でも私の中の根っことしてあります。

わたしなりの解釈は「諦める」とは受容するということだと思っています。「そうなんだ」とありのままを受け取ることだと。
その一見単純に思えることがとても難しかったりするのだけど、難しくしている原因は誰でもない自分であると思っています。

問題の因子は常に自分の中にある。
だけど、向き合うことを避けていると、それはいろんな邪念をくっつけて「不安」や「恐れ」を生み出すんじゃないかと。
そして、そうじゃない、あなたはそのままで大丈夫よ。なんて甘く囁いてくれる人を求めてさまよってしまう。

自分の想像力の世界に浸って、問題と向き合わずに過ごした時間の長かったこと。30代後半から40代のほとんどを「不安」や「恐れ」の中で過ごしてしまいました。
でも、向きあう元気が出たのは、以前と環境が違ったから。その時だから向き合えた。とも言えます。

何がいいとか悪いとか、そんなことは誰にもわからない。
そういうことも含め、それが私とただ受け止めてあげる。そういうこと。

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